広島人に「広島風お好み焼き」と言ったらなぜブチぎれられるか

「広島風お好み焼き」——この何気ない呼び方に、私たち広島県民は思わず眉をひそめてしまいます。なぜなら、この「風」という一文字に、私たちの誇るソウルフードへの冒涜を感じるからです。

広島に生まれ育った者にとって、お好み焼きとは日常の一部であり、魂の糧。スーパーマーケットの棚に並び、学生時代の思い出を彩り、そして今なお私たちの胃袋を満たし続けている、かけがえのない存在なのです。

そもそも、私たちにとって「お好み焼き」とは、麺とキャベツがたっぷり入ったものを指します。これこそが本来の姿であり、原点なのです。この記事では、なぜ広島県民が「広島風」という呼び方に異を唱えるのか、その深層に迫っていきたいと思います。どうか皆様、広島弁まじりの熱い想いに、しばしお付き合いください。

目次

お好み焼きは広島が誇る市民文化。”風”に対して強く憤る

私たち広島の人間にとって、お好み焼きは特別な存在です。それは観光客向けの「名物料理」でも、ハレの日の「珍しい御馳走」でもありません。むしろ、日々の暮らしに寄り添う「日常食」そのものなのです。スーパーマーケットの惣菜コーナーに500円台で並び、学生の放課後のおやつとなり、サラリーマンの夜食として愛され続けている。そんな、私たちの生活に深く根付いた存在なのです。

その日常の味に”風”という語が付されるとき、私たちは深い違和感を覚えます。なぜなら”風”という言葉には、「似て非なるもの」「本物ではないもの」という、どこか軽視するようなニュアンスが含まれているからです。例えるなら、本物のシャネルに対して「シャネル風バッグ」と呼ぶような、その突き刺さるような違和感。私たちの誇る食文化を、まるで「まがいもの」のように位置づけるこの呼称に、黙って頷くわけにはいきません。

広島時代の思い出を振り返れば、両親と「お好み村」に足を運んだ光景が鮮やかによみがえります。鉄板から立ち上る湯気。職人の巧みな手さばき。そして出来立ての一枚に舌鼓を打つ瞬間。それは単なる「食事」を超えた、青春の象徴そのものでした。麺とキャベツがたっぷり入ったお好み焼きは、まさに広島の心そのもの。私たちのアイデンティティと言っても過言ではありません。

戦後の混乱期。限られた食材で庶民の胃袋を満たすべく工夫を重ねた先人たち。彼らの知恵と経験が、現在のお好み焼きを形作ったのです。生地と麺を別々に調理し、層を重ねていく技法は、決して偶然に生まれたものではありません。それは、時代の要請と創意工夫が生み出した、必然の産物だったのです。

さらに、広島のお好み焼きには、選択の楽しみも存在します。うどんか中華そばか、その日の気分で麺を選べる贅沢。これも、長年の進化が生み出した文化的な深みといえるでしょう。オタフクソースは、これら全ての要素を見事に調和させる魔法の潤滑剤。一度その虜になれば、もう他のソースでは満足できなくなるほどの圧倒的中毒性があります。

このように考えると、「広島風」という呼称がいかに不適切かが、お分かりいただけるのではないでしょうか。これは単なる地域感情や偏狭な主張ではありません。歴史に裏打ちされた正統性、技術的な洗練、そして何より、地域の人々の日常に深く根付いた文化的価値。これらの要素を総合的に考慮すれば、むしろ「広島風」という限定的な呼び方こそが見直されるべきなのです。我々にとって、麺入りのお好み焼きは「風」でもなんでもありません。亜流すら存在しない、世界で唯一のソウルフードなのであります。

冠すべきは”広島”にあらず

広島県民である私たちが、「広島焼き」という呼称に違和感を覚える理由は実に明確です。私たちにとって、お好み焼きとはすなわち「麺入り」が当然のスタンダード。そこにわざわざ「広島」という冠を付ける必要性など、どこにも見当たらないのです。

この感覚は、地元のスーパーマーケットの売り場を見れば一目瞭然です。お好み焼きコーナーでは、実に9割以上のスペースを「麺入り」が占めています。対して、いわゆる「関西風」はわずか1割にも満たないスペースに、申し訳程度に並べられているに過ぎません。これは決して偶然ではなく、地域の需要と嗜好が長年かけて築き上げてきた、揺るぎない現実なのです。

広島の市民にとって、お好み焼きは特別な「郷土料理」でも「観光グルメ」でもありません。それは日々の暮らしに寄り添う、当たり前の存在なのです。学生の放課後のおやつとして、サラリーマンの夜食として、家族の団らんの一品として——。このように、生活に深く根付いた食文化に、なぜ「広島」という地域限定的なラベルを貼る必要があるのでしょうか。

私たちが「広島焼き」という呼び方に苦言を呈するのは、決して狭量な地域主義からではありません。むしろ、この呼称が「特殊な地方変種」というニュアンスを含んでいることへの、正当な異議申し立てなのです。生地と麺を別々に調理し、層を重ねていく手法は、長年の工夫と経験が生み出した必然の技法です。そこには、単なる「地方色」を超えた、普遍的な価値が存在しているのです。

実際、広島の街中で「広島焼き、一丁!」なんて注文を聞くことは、まずありません。お店でもメニューでも、シンプルに「お好み焼き」と表記されているのが一般的です。なぜなら、私たちにとってそれが「お好み焼き」の本来あるべき姿だからです。「広島」を付けることは、むしろその正統性を損なうような印象すら受けるのです。

関西「風」お好み焼きはピザ

広島県民の立場から、率直に申し上げましょう。麺の入っていないお好み焼きは、もはやお好み焼きと呼べるものなのでしょうか。これは決して地域対立を煽るための挑発ではなく、純粋な疑問として投げかけたいのです。

まず、調理工程の本質的な違いについて考えてみましょう。広島のお好み焼きは、生地と具材を層状に重ねていく高度な技法を要します。特に、麺とキャベツを別々に調理し、絶妙なタイミングで重ねていく工程は、まさに職人技といえます。一方、関西風は——申し訳ありませんが——全ての材料を混ぜ合わせて焼くだけ。これでは、イタリアのピザと大差ないではありませんか。生地に具材を載せて焼く。この調理法で言えば、ピザもお好み焼きも、果てはデニッシュパンも同じカテゴリーに入ってしまいます。極論を言えば、ホットケーキの生地に鰹節と青のりをかければ、それが関西風お好み焼きになってしまう。この事実は、関西風お好み焼きの本質的な脆弱性を示しているのではないでしょうか。

栄養学的な観点からも、両者の差は歴然としています。広島のお好み焼きには、たっぷりのキャベツが織りなす食物繊維の妙があります。これは単なるボリュームの問題ではなく、健康面での優位性を示すものです。一方、関西風は、率直に申し上げて小麦粉の塊と言わざるを得ません。「小麦爆弾」という表現は決して大げさではないのです。

実体験として、関西風お好み焼きを食べた翌日の苦悩は忘れられません。まるで胃の中で膨張する小麦粉の塊。まさに不発弾のごとく、消化器系を苦しめる凶器と化したのです。対して、広島のお好み焼きなら、豊富な野菜と適度な麺のバランスにより、このような苦しみとは無縁です。むしろ、腸内環境を整える効果すら期待できるのです。

さらに興味深いのは、食事としての完成度の違いです。広島のお好み焼きは、麺(うどんか中華そば)を選べる楽しみがあり、一食の主食としても十分な満足感があります。対して関西風は、ピザと同様に、食とおかずの境界が曖昧。結果として、食後の満腹感は得られるでしょう。しかし、本当の意味での食事としての充足感は得られにくいのです。これは決して地域感情から来る偏見ではありません。構造的、栄養学的、そして食文化的な観点から見た、冷静な分析の結果なのです。お好み焼きの真髄は、生地と具材の調和にあります。その意味で、広島のお好み焼きこそが、真の「お好み焼き」と呼ぶにふさわしい完成形なのではないでしょうか。

ピザを否定するつもりはありません。ピザはピザとして素晴らしい食文化です。同様に、関西風お好み焼きも、独自の食文化として認められるべきでしょう。ただし、それを「お好み焼き」と呼ぶことには、一考の余地があるのではないでしょうか。なぜなら、その本質は「粉物のピザ」に限りなく近いものだからです。

総括

私たち広島県民にとって、お好み焼きは単なる食べ物以上の存在です。それは日々の暮らしに寄り添い、世代を超えて愛され続けてきた、まさに魂の料理なのです。

「広島風」や「広島焼き」という呼び方に憤りを感じるのは、この料理への深い愛着があればこそ。麺とキャベツがたっぷり入った、この完璧な一品こそが、私たちにとっての”本物”のお好み焼きなのです。スーパーでの圧倒的な売り場面積比からも、その事実は明らかでしょう。

食物繊維たっぷりで体にも優しく、ボリューム満点でありながら消化も良好。オタフクソースが織りなす至高の味わいと相まって、これほど理にかなった料理は他にありません。広島のお好み焼きに「風」を付ける必要などないのです。なぜなら、これこそが紛れもない”真実”のお好み焼きなのですから。

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この記事を書いた人

1997年広島生まれ。北海道大学大学院博士後期課程にて電池材料研究に従事。日本学術振興会特別研究員DC1。オックスフォード大学での研究経験を持つ。
漱石全集やカラマーゾフの兄弟など純文学を愛す本の虫。マラソン2時間42分、岐阜国体馬術競技優勝など、アスリートとしての一面も。旅行とナンプレとイワシ缶も好き。

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