『吾輩は猫である』レビュー|猫の視点が暴いた明治の世相とは

『吾輩は猫である』は、夏目漱石が1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて発表した長編小説です。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という印象的な書き出しで始まる本作は、当初『ホトトギス』という雑誌に掲載された短編として構想されていました。しかし、読者からの熱烈な支持を受け、最終的に全11章からなる長編小説へと発展していきました。本作は漱石の処女作でありながら、後の『坊っちゃん』『三四郎』などに繋がる彼の文学的特徴を鮮やかに示す作品となっています。

漱石がこの作品を執筆した明治30年代後半は、日露戦争の勃発や急速な近代化の進展など、日本社会が大きな転換期を迎えていた時期でした。そうした時代背景の中で、本作は単なる風刺小説の枠を超えて、近代化する日本社会の諸相を鋭く切り取る鏡となっています。

目次

あらすじ

ある雨の日、野良猫であった「吾輩」は、学校教師の珍野苦沙弥の家に迷い込みます。この家との出会いが、「吾輩」の人間観察の始まり。主人である苦沙弥は、西洋の学問を修めた英語教師。ただし、現実社会での処世術に長けているとは言い難い人物として描かれます。彼の書斎での読書や思索の様子、時に空虚に響く議論は、明治の知識人が抱えていた理想と現実の乖離を象徴的に示しています。

苦沙弥の周囲には、実に個性的な人物たちが集まってきます。古風な価値観を持ちながらも、夫の生活を支える強かな妻の細君。諧謔と機知に富んだ文学者の迷亭。純粋な学究肌の青年である水島寒月。成金趣味の金田家の面々。これらの人物たちは、それぞれが明治時代の特徴的な社会層を代表する存在として描かれています。

特筆すべきは、これらの人物たちの描写が、単なる類型的な性格付けに留まっていない点です。例えば、一見すると滑稽な存在として描かれる苦沙弥でさえ、その内面には深い人間性が宿っています。彼の示す学問への真摯な態度。時として垣間見える繊細な感性。これらは、単なる揶揄の対象としては描ききれない奥行きを持っています。

猫が語る独創的な語りの手法

本作における「猫」という語り手の選択は、日本近代文学史上、画期的な試みでした。この設定により、漱石は従来の人間中心の視点から解放され、全く新しい物語世界を創造することに成功しています。「吾輩」は、人間社会を観察しながらも、それに完全には同化しない存在として描かれます。この微妙な距離感が、本作の独特の批評性を生み出す重要な要素となっているのです。例えば、「吾輩」は苦沙弥の書斎で繰り広げられる議論を傍聴する際、その内容を理解しながらも、常に一定の違和感を持って観察しています。「哲学者が西洋の学者の説を紹介するのを何げなく聞いていると、どうも非常に確からしい様であるが、突然我に帰って見ると妙にあやふやして来る」という場面は、まさにこの語りの特質を端的に示していましょう。

さらに注目すべきは、「吾輩」の語りが持つ重層性です。時に「吾輩」は純粋な観察者として振る舞い、時に哲学的な思索を展開し、また時には人間たちの会話を代弁する存在となります。この視点の揺らぎこそが、本作に豊かな文学的深度をもたらしているのです。例えば、迷亭の毒舌を伝える際の「吾輩」の語りには、その言葉の辛辣さを楽しむような視線と、それを相対化する批評的な視線が同時に存在しています。

本作の文体的特徴は、「猫」という語り手の特性を最大限に活かした独創的なものとなっています。特に注目すべきは、文語体と口語体の絶妙な使い分けです。「吾輩」の基本的な語りには格調高い文語体が用いられます。人間たちの会話を伝える際には生き生きとした口語体が採用されている。この文体の使い分けにより、「吾輩」の観察者としての位置が効果的に強調されているのです。

明治期への社会批評

本作の社会批評としての価値は、特に明治期の知識人層への鋭い観察において際立っています。主人公の苦沙弥を始めとする知識人たちは、西洋文明の受容という時代の要請の中で、様々な矛盾や葛藤を抱えています。例えば、苦沙弥が示す「天下の書生は大抵似たようなものだ」という認識は、当時の知識人たちが共有していた自己認識の一端を示しているのではないでしょうか。

特に興味深いのは、これらの知識人たちが抱える理想と現実の乖離の描写です。苦沙弥は西洋の哲学書を読み漁りながらも、日常生活では妻の細君に頭が上がりません。この図式は、単なる個人の性格描写を超えて、近代化する日本社会における知識人の立場の不安定さを象徴的に示しています。

本作の視野は、単に知識人社会の批評に留まりません。金田家に代表される新興成金層の描写を通じて、明治期の日本社会が経験していた階級構造の変動が鮮やかに描き出されています。特に、金田家の俗物的な振る舞いへの「吾輩」の皮肉な眼差しは、単なる揶揄を超えて、近代化がもたらした価値観の混乱を鋭く指摘しています。本作は、近代的な家族制度の形成過程をも克明に描き出しています。苦沙弥家における夫婦関係、特に細君の立場は、伝統的な家族制度から近代的な家族制度への移行期における女性の役割の変化を示唆しています。細君は古風な価値観を持ちながらも、実質的に家計を支える存在として描かれ、この二重性自体が時代の特質を表現しているのです。

総括

『吾輩は猫である』は、「猫」という異質な視点を通して明治期の日本社会を鮮やかに切り取った傑作。その文学的手法は、現代の読者にも新鮮な驚きと深い示唆を与え続けています。本作が描き出す人間の本質的な愚かさと愛すべき面は、時代や社会の変化を超えて、私たちの心に強く訴えかけてくるのです。

漱石が選んだ「猫」という視点は、単なる文学的な技巧を超えて、人間社会を見つめる普遍的な視座を提供しています。同時に、その温かみのある批評精神は、現代社会を生きる私たちの自己理解にも大きな示唆を与えてくれます。

この意味において、本作は日本近代文学の古典としてだけでなく、現代においても極めて今日的な意義を持つ作品として、私たちの前に存在し続けているのです。漱石が「吾輩」を通して描き出した人間社会の姿は、百年以上の時を経た今日でも、私たちの心に深い感動と洞察をもたらしてくれるのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

1997年広島生まれ。北海道大学大学院博士後期課程にて電池材料研究に従事。日本学術振興会特別研究員DC1。オックスフォード大学での研究経験を持つ。
漱石全集やカラマーゾフの兄弟など純文学を愛す本の虫。マラソン2時間42分、岐阜国体馬術競技優勝など、アスリートとしての一面も。旅行とナンプレとイワシ缶も好き。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次