【ロシア文学二大巨頭】トルストイとドストエフスキーの作風の違い

19世紀後半のロシアに、文学史上の奇跡とも呼ぶべき瞬間が訪れました。レフ・トルストイ(1828-1910)とフョードル・ドストエフスキー(1821-1881)という二人の巨人が、同時代を生きていたのです。互いの存在を強く意識しながらも、彼らは生涯一度も直接の対面を果たすことはありませんでした。

1861年の農奴解放令を境に、ロシアは激動の時代を迎えていました。古い価値観が崩壊し、新しい思想が流入するこの混沌とした時代の只中で、二人の作家は人間の魂の真実に迫ろうとしたのです。その探求の足跡を、これからたどってみましょう。

目次

存在論的相違

トルストイの世界観の核心には、「全体性」への強い志向があります。『戦争と平和』において、個人の意志と歴史の必然性の関係を執拗に追求したのも、その表れなのです。ナポレオンでさえも、より大きな歴史の流れの中の一つの要素として相対化されます。

より具体的に見てみましょう。『戦争と平和』のピエールは、フリーメイソンへの入会や社会改革の試みなど、個人的な意志による世界の改変を目指します。しかし、真の悟りは捕虜となって全てを失った時にやってきます。プラトン・カラターエフとの出会いを通じて、彼は個人の意志を超えた生命の流れに目覚めるのです。

一方、ドストエフスキーの世界は、近代的主体の孤独という根源的な「断絶」から始まります。『地下室の手記』の主人公は言います。「意識は病気である」と。この一文には、近代人の自意識がもたらす分断の本質が凝縮されています。『罪と罰』のラスコーリニコフも、自らの理論に基づいて行動しようとしますが、その試みは破滅的な結果をもたらします。

特に注目すべきは、『カラマーゾフの兄弟』のイワンです。彼の知性は「すべてが許される」という究極の個人主義的結論に到達しますが、その結論は彼自身の精神をも破壊していきます。ここには、個人の意識が全体性から切り離された時の悲劇が描かれているのです。

認識論的相違

トルストイの描写の特徴は、その徹底的な「透明性」にあります。『戦争と平和』におけるナターシャの心理の変化は、春の雪解けのように自然な過程として描かれます。特筆すべきは、彼の描く人物の心理が、常に外的な自然現象と呼応している点です。

例えば、『アンナ・カレーニナ』でアンナが初めてヴロンスキーに魅かれる場面。彼女の心の動きは、吹雪の夜の列車の動きと見事に共鳴しています。また、レーヴィンの精神的危機は、農作業のリズムや自然の循環と密接に結びついて描かれます。この手法は、人間心理の「自然さ」を強調する効果を持っているのです。

対照的に、ドストエフスキーの世界は本質的に「不透明」です。『カラマーゾフの兄弟』において、スメルジャコフの自殺の真の動機は最後まで明らかにされません。イワンの悪魔との対話は、彼の妄想なのか実在の体験なのか、決定的な答えは与えられないのです。

さらに深い例として、『白痴』のムイシュキン公爵の「美が世界を救う」という言葉があります。この言葉の真意は、作品を通じて様々な解釈の可能性に開かれたままです。ロゴーシンの暗い情念も、その根源は明確には説明されません。この「不透明性」は、人間の心理の測り知れない深さを表現する手段となっているのです。

倫理学的相違

トルストイの倫理観は、究極的に「自然」という概念に基礎づけられています。『コサック』のオレーニンが体験する自己犠牲の歓喜、『戦争と平和』のピエールが捕虜生活で発見する生の真実―これらは全て、個人の意志が自然の流れに従うことで得られる救済の形なのです。

特に重要なのは、晩年のトルストイが到達した倫理思想です。「抵抗せざるの教え」は、人為的な制度や概念を排し、自然な道徳感情に従うことを説きます。『イワン・イリイチの死』では、主人公が死に直面して初めて、生の自然な真実に目覚めていく過程が描かれます。

一方、ドストエフスキーの倫理観は徹底的に「逆説的」です。『罪と罰』のソーニャの売春、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーの無実の罪の引き受け―これらは通常の道徳的判断を超えた次元で機能する救済の形として描かれます。

さらに深く見れば、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老が説く「一切が一切に対して罪を負う」という思想があります。これは単なる集団責任論ではなく、人間存在の根源的な連帯性についての逆説的な洞察なのです。また、『白痴』のムイシュキン公爵の「積極的な善」の実践は、しばしば周囲に混乱をもたらします。この逆説は、単純な道徳律では捉えきれない人間存在の複雑さを示唆しているのです。

形而上学的相違

トルストイの世界観の根底には、究極的な「調和」への信頼があります。『戦争と平和』の結末で描かれる新たな家族の誕生、『アンナ・カレーニナ』におけるレーヴィンの精神的安定―これらは、自然の秩序との調和における救済を示しているのです。

この調和への信頼は、しかし決して安易な楽観主義ではありません。『コサック』のオレーニンが体験するように、それは個人の執着や願望の徹底的な放棄を通じてのみ到達される境地なのです。『復活』のネフリュードフも、社会的地位や個人的な欲望を手放すことで、より高次の調和に目覚めていきます。

対照的に、ドストエフスキーの世界は常に「深淵」の存在を意識しています。『白痴』のムイシュキン公爵の崇高な理想は現実との接触で破綻し、『悪霊』のスタヴローギンの知的な探求は虚無への転落で終わります。

しかし、この深淵の認識自体が、逆説的な救済の可能性を開きます。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが体験する「大地との交感」は、まさにこの深淵を潜り抜けた先にある、新たな調和の可能性を示唆しているのです。これは、トルストイの描く自然な調和とは質的に異なる、より逆説的な救済の形態といえるでしょう。

現代的意義の深化

トルストイとドストエフスキーの探求は、150年を経た今日、むしろより切実な意味を帯びています。デジタル技術による世界の分断化が進む中で、トルストイが『戦争と平和』で描いた「全体性の喪失」という問題は、より深刻な形で立ち現れているのです。

SNSによる認識の分断化、コミュニティの崩壊―これらは、トルストイが予見した「人間と自然の分離」がより先鋭的な形で実現したものといえます。彼が描いた「全体性への回帰」という主題は、現代のエコロジー思想とも深く共鳴するものです。

一方、ドストエフスキーが『罪と罰』や『地下室の手記』で描いた実存的不安は、AIの発達やバーチャル空間の拡大によって、新たな位相を迎えています。「人間とは何か」という問いは、もはや哲学的な思索の域を超えて、差し迫った現実の問題となっているのです。

彼が描いた「地下室」的な意識は、現代のインターネット空間における匿名性の問題と驚くべき親和性を示しています。また、『悪霊』で描かれた革命思想の問題は、現代のイデオロギー対立を考える上で重要な示唆を与えてくれます。

両者の対照的なアプローチは、テクノロジーの加速度的な発展に直面する現代において、相補的な意味を持ち始めているのかもしれません。トルストイが示す「全体性への回帰」という方向性と、ドストエフスキーが示す「深淵との対峙」という姿勢は、現代の危機を考える上で、ともに不可欠な視点を提供しているのです。

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この記事を書いた人

1997年広島生まれ。北海道大学大学院博士後期課程にて電池材料研究に従事。日本学術振興会特別研究員DC1。オックスフォード大学での研究経験を持つ。
漱石全集やカラマーゾフの兄弟など純文学を愛す本の虫。マラソン2時間42分、岐阜国体馬術競技優勝など、アスリートとしての一面も。旅行とナンプレとイワシ缶も好き。

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